澤村勘兵衛勝為による開削

澤村公は慶長18年(1613)現在の千葉県富津市に生まれました。藩主、内藤侯の転封と供に磐城平に移ってきました。後に郡奉行を命ぜられ農村、農民のために尽くした人物です。当時はため池や天水による灌漑が主であったため、しばしば干害に見舞わていました。また、内藤侯の殖産政策と相まって、安定した米つくりと新田開発を目的に澤村勘兵衛による小川江筋の開削が始まりました。澤村公は開削にあたり俸禄5百石のうち3百石を奉還しその工事にあて身命をかけてこの工事に臨みました。

 

 

 

(写真:源門絵図)澤村神社蔵

開削の苦労

開削にあたってはまず夏井川から取水する場所を選定しなければなりませんでした。高低差を考え多くの田んぼに用水を行きわたらせるため小川の関場に取水堰を設け山の裾野を這わせて水路を通しました。作業はすべて手作業で鍬や鋤で土を掘り、もっこという道具で土を運び、測量は夜提灯を灯して高低さを測ったと言われています。水路を通す場所がない切り立った岩場は鑿で岩を削り隧道を通しました。その際、蛇の大群に遭い工事にあたった農民たちを安心させるため蛇塚を築き、工事の安全を祈願して大日如来を上平窪にある利安寺に勧請しました。

 

 

勘兵衛の切腹と「じゃんがら念仏おどり」

しかし勘兵衛は罷免となり切腹を命ぜられることになりました。その原因ははっきりわかっていませんが、大日堂を建立した土地を除地とし年貢の免除を行ったとか、人足の農民を厳しく扱ったとか、家中の勢力争いに巻き込まれたのが原因と言われています。ついに勘兵衛は、1655年7月14日平大館の西岳寺(現在は大宝寺)にて自刃しました。(享年43歳)それを悲しんだ農民たちは草野の光明寺で行われた勘兵衛の一周忌に、自分たちは文字が読めず読経が出来ないので念仏踊りで供養をしたいとの申し出があり、それが今日に続くお盆の風物詩「じゃんがら念仏おどり」の始まりだと言われています。

 

勘兵衛の墓所と大日堂 

勘兵衛が工事の安全のために建立した大日堂と勘兵衛の墓碑は平上平窪の利安寺にあります。勘兵衛の墓は長い間発見されていませんでしたが、明治42年利安寺の草むらの中から発見されました。墓碑には「一聲院殿剱誉利道居士」と刻まれ側面に明暦元年乙未とあり、そこからは遺骨と短刀が発見されました。勘兵衛の遺言により遺骸を密かに運び出しこの地に埋葬したと言われています。毎年7月14日には墓前祭が盛大に行われ、お盆には地元青年会により「じゃんがら念仏おどり」が奉納されます。墓所の周りには県指定天然記念物のシイノキ郡が生い茂り、銀杏の大木のもとで静かな眠りについています。